藤白神社(これよりはじめ)

熊野の荘園管理家、八家の一つ鈴木家が平安時代末に熊野から海南市藤白に引っ越し、
鈴木家の祖先にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)をお祀りしたのが、藤白神社
熊野地の入り口、霊験あらたかな熊野にあやかろうと全国にこの鈴木姓がひろまったとされています。

 
            藤白神社の大楠の下の三熊野一の鳥居、その横の石碑には
ここが熊野三社への入り口ということで、「これより熊野地のはじめ」と書かれています。
〈鈴木家のはじめともよめますネ〉
〈南方熊楠が名をもらったという藤白神社の御神木がこれかなと思います。〉

藤白神社を通る熊野三山への参詣路(熊野古道)
小栗判官(ほうがん)が照手姫と二人で熊野をめざした雄ノ山峠越えの路
小栗街道とも呼ばれます。
藤白神社のすぐ近くの藤白坂にある有間皇子の椿地蔵と有間皇子の歌碑があります。

有間皇子は孝徳天皇の皇子でしたが、天皇の跡継ぎ抗争で、
牟婁の湯(白浜湯崎温泉)で行幸中の天皇の元へ護送され、
その帰り路、この藤白坂で絞殺されています。
「家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」

岩代の結松〈日高郡みなべ町岩代地内〉
「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む」

藤白神社の第1駐車場のトイレの鬼瓦はヤタガラス。
ヤタガラスは熊野の守り神で、日本サッカーのロゴマークにもなっています。
日本サッカーの創始者中村覚之助が和歌山の那智勝浦町出身だからだと聞いています。
  
トイレ側面の喚起窓の穴が変わっています。すぐ近くの鈴木屋敷で見た鬼瓦の模様に似ているように思います。

藤白王子権現本堂には迫力溢れる龍の鬼瓦でした。