お寺の鬼瓦について(和歌山の花と虫」的考察)

 お寺は、鬼瓦の宝庫です。  
撮影を始めた当初は宗派によって鬼瓦(鬼面鬼瓦)に変化があるかもしれないと期待していましたが、今のところそのような傾向を見つけることはできませんでした。<鬼面ではなく、宗紋を鬼瓦にしている寺院は多くありましたが>
           

 お寺の宗教は、もしかしたらフランス発祥のオシャレ〜な宗教だと思っている方もおられるかもしれませんが、紀元前5世紀、インド北部のガンジス川中流域で、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)が説いた教え、仏教です。
 人の一生は苦しみに満ちあふれ、永遠に続く輪廻の中で永遠に苦しむ。その苦しみから抜け出すためには修行により自ら仏陀(目覚めた人)になることだ。
 生前に功徳を積めば次の輪廻では天道に生まれ変わり、悪行を積めば修羅道や地獄道に生まれ変わるという因果転生、悟りを開かない限り無限にこの輪廻を続けなければなりません。
 釈迦が説く仏陀(目覚めた人)は空の概念に基づく人間と同じ生命です。釈迦の教えを庶民に対して具現化する意味もあったのでしょう後に大仏や菩薩等の諸仏を信仰の対象にするようにもなりますが、このようなことは唯一絶対の神への絶対服従を求めるイスラム教などでは考えられないことです。 
 それにしても、鬼瓦はどうゆう意味をもつのでしょうか。鬼瓦で結界をはったとは考えにくく、強いて言えば凡人なら当然悟りに邪念を招くと心配される女人禁制ぐらいでしょうか?

 日本に仏教が伝わったのは釈迦の時代からず〜と経った飛鳥時代。「日本書紀」によると522年、「上宮聖徳法王帝説」(聖徳太子の伝記)によると552年。
 日本で最初のお寺は、588年百済の技術者を呼んで建てたという飛鳥寺で、これが鬼瓦の歴史のはじまりです。鬼瓦は鬼面ではなく、蓮華文を飾ったものでした。

 聖徳太子は、「十七条の憲法」の第二条に「仏教を信じ、従いなさい」と書き、自ら法隆寺や四天王寺を建立しました。その後の権力者(天皇家等)もシャカリキになって東大寺、薬師寺、唐招提寺(鑑真)等、奈良時代にかけてりっぱなお寺をたくさん建立します。日本での仏教は当初、その教えが持つ強大な力をかりた国家を鎮める手段に使われます。
 鬼瓦に鬼面もでてきますが、レリーフ状の平面的なデザインで古代鬼面と呼ばれます。
現在でも、このタイプの鬼面はたくさん見ることができます。
       
この頃の鬼瓦は仏師が造ったので鬼ではなく、神獣だったといわれます。
そうゆうことから仏教とこの頃の鬼瓦を切り離してしまうことはできないところがあります。
 平安時代に入ると、政治に注文を付ける寺院も出てきました。それに対抗するため、天皇は奈良から京都の平安京に遷都するとともに、二人の僧を中国に送ります。そして帰国した最澄に天台宗(比叡山)を開かせ、本来の釈迦の教えにもっとも近いとされる密教を広めさせます。しかし、最澄は後に帰国した空海(弘法大師)の密教の方が本流だと気づき、空海の弟子になった時期もありました。
 空海は高野山に金剛峰寺を開き、その真言密教は天台宗を上回る勢いで広まり、さらに修行により即身成仏となった空海の後、その弟子達がそれぞれ真言密教を広めるために分家したのが真言宗の各派(醍醐派、山科派、御室派など)です。新しい真言宗を目指した新義真言宗(根来寺)からは豊山派、智山派が派生しています。

 平安時代中期に入ると末法の世相が強まり、このままでは現世の幸福も期待できない、ひたすら念仏を唱えて来世の救済を願う浄土宗(法然)が流行ります。
角のある鬼面の鬼瓦が使われ始めますが、この時代の人々が邪気から逃れたい、強い者にすがりたいと願ったからでしょうか。
 さらに、鎌倉時代に入ると、その浄土宗を中心に、国家を鎮めるための仏教から、悩める民衆を導こうという動きがでてきます。今までの難しい理論や超人的修行ではなく、日常に実践できる教えが説かれ、「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで救われるとする浄土宗、悪人であってさえも往生できるとする親鸞の浄土真宗(一向宗)、時宗(一遍)が生まれてきます。また、政治の実権が貴族から移りつつあった武士に支持され禅宗の臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)も生まれています。
 鬼面は、この頃3D化(立体化)しはじめ、室町時代になると既に現在のような2本の角を持ち、耳まで裂けた口、剥きだしの牙の姿が主になってきます。お寺の名前を記した文字瓦もこの頃です。
        
 しかし、安土桃山時代に入ると鬼瓦にとっては受難の時代となります。増兵を擁す宗教勢力は政治的武力抗争にも介入を続けますが、信長や秀吉は従わない宗教勢力を徹底的に討伐します。この時期に多くの鬼瓦が破損してしまったことを思うと残念でなりません。

 家康は寺請制度により、人々を必ずいずれかの寺院に登録させることで勢力の拡大を防止し、また浄土真宗を上手に東本願寺と西本願寺に分裂させて、勢力の弱体化を図っています。
 このようななかでも、天海(天台宗)は、家康の葬儀の導師をつとめ日光山を再興、江戸上野に寛永寺を開山、他の多くの各宗各寺院も江戸時代に再興されました。仏教にとっては明治維新直後の廃仏キ釈もありましが、鬼瓦はなんなく生き延びました。これは仏教の力だけでなく、真に鬼瓦自身が持っていた神秘なのかもしれません。
 振り返れば、様々な仏教が日本に伝来し、様々な宗派を生み、その時々の権力に関わり、鬼瓦も単なる縁起・魔除けとしてではなく、進化をしながら、りっぱに寺院の象徴として屋根を飾っています。
  なかでも鬼面鬼瓦は神獣から進化した日本独自のもの、様々な宗派に展開できる仏教だからこそ鬼瓦の進化もあったのでしょう。他の宗教ならおそらく進化は許されなかったことでしょう。
 そして、「和歌山の花と虫」が期待した宗派独自の鬼面鬼瓦は、元をたどればどんな宗派のお寺も仏教なんだから意味のなかったことでした。
 それにしても鬼瓦!!最近屋根から降りてお寺の境内にならぶ鬼面も見かけますが、これからどのように生きてゆくのでしょうか